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ストレスと向き合う

何をするにもついて回るストレス。現代はストレスフルな社会だ、なんて言うけれど本当にその通りだと思う。

ストレスが溜まっているいるのかもと自覚し始めると、さらに反応してしまい、嫌な事⇒ストレス⇒怒る⇒ストレスのように、終わりがないくらいにストレスを感じてしまうのが常。
意識しないようにしようと思うと、余計に目についてしまうように、安定した気持ちを求めすぎるが余りに自分の首をしめているように感じる。

なにが原因となって、不快感や苛立ちなどの負の感情に繋がるのか。
こちらで紹介していこうと思う。


ストレスを感じてしまう根本的な理由を理解しないことには、解決できない。

当たり前のことだが、世の中にはストレスの溜まりやすい人と溜まりにくい人がいる。
家庭、職場、学校、それぞれ沢山の異なったコミュニティに属しているが、同じ環境にいる人間同士でもストレスの度合いは大きく変わる。

同じように理不尽な怒られ方をした2人でも、「なぜこんな理不尽に皆の前で怒られなければいけないんだ」と震えるほど怒りに満ちる人もいれば、何も感じないままに、さらりと「すいません」が言える人だっている。

人それぞれ。感じ方は十人十色。
違いを表す言葉は沢山あり、それでまとめてしまえば簡単だが、なにが、どう違うから、その人はストレスを感じずにすんだのか。
そこまで考えることによってこそ解決策が見えてくるのではないだろうか。

ストレスを生み出すのは自分自身

ストレスをなくしたい、減らしたいと考えているのなら答えは簡単だ。
自分という人間を変えるだけ。
響きだけ聞くと、とても簡単に聞こえるが、これが大変に難しいことであるが故に人類はストレスから逃れられずにいる。

まず上でも書いたように、同じ出来事が起きても受けとり手によって全く違う反応がでる。
所謂「感じ方の違い」「価値観の違い」である。

日本では麺やそばを音を立てて啜る。それが、おいしそうな食べ方であり、皆もそうして食べているから何も感じる人はない。
しかし国をまたいでフランスでの食事時、麺を啜っていると周りは不愉快な気持ちになり、マナー違反ではと冷たい視線が向けられる。

だが今出した2つの例は、ただ麺を啜っていたという事実しかない。
なのに全く違う反応を見せる人々。
ここでもまた「価値観の違い」が、心に抱くものを変えているように思える。

日本の人々は麺は啜って食べてもいい、それが麺の食べ方だと教育されてきている。しかしフランスの人々は、食事中に音をだすのは汚い、マナーに欠けると教育される。


この植えつけらた当たり前という価値観こそがストレスに繋がっているのではないだろうか?

当たり前が苦しめる

皆さんの中にある当たり前という感覚は、今に至るまでに植えつけられてきた偏見という名の常識であるといえる。

朝ごはんを食べないと体に良くない。上司にはこんな態度をすべきではない。10分前行動が社会のルール。

今思いつくだけでもかなりの数の常識に囚われて生きているのではないだろうか。
こうしてどこの誰かが大昔に作りあげた理想を皆のものとして共有し、たくさんの縛りを課している。
少しでも自分の常識という枠からはずれ、期待した言動ではなかった場合、非常識であるとか、社会の理想像からは程遠いような言い方や印象を受けてしまう。

己自身もそうした行動に身に覚えがあるはずだ。
日常には様々な場面でストレスを感じる瞬間が待ち構えているが、果たしてそれらの出来事は「自分」という存在に対して、あるいは周囲にたいして迷惑や損害をこうむる物事だっただろうか。

ぜひ直近での怒りが湧いた、ストレスを感じた状況を思い出してみてほしい。

そのストレスの原因となっているのは、理想の押し付けや、こうあるべきという正義感ぶった常識を振りかざしたものではないか、今一度自分の内側に耳を傾けよう。

ストレスは減らせる

ストレスの解消法については、睡眠、運動、趣味に打ち込むなど、様々な発散の仕方があるが、解消法に力を入れたところでまたすぐに溜まってしまうのなら、そもそものストレス自体を極力感じないようにする方が手っ取り早いように思える。
がしかし、人と人とが繋がっていることで社会はまわり成り立っており、他者となんらかの関わりがある限りストレスから逃れることは出来ない。
かと言って、一人でいることを選ぼうとすれば孤独は人を苦しめる毒にもなりうる。

ただ、何も打つ手が無い訳ではない。
ストレス量をゼロにすることは出来なくとも、減らすことは出来るのだから。

受け入れる

端的に言ってしまえば、広い心を持つことだ。

相手の気持ちや考えをくみ取り、相手を想うのだ。何も好きになれというのではない。
自分はたった一人の特別な人間であるように、相手も特別でたった一人の特別な人間であると認識し尊重しよう。

国、外見、環境、趣向、知能、宗教。人を構成する全てが同じ人間なんていないのだから、考え、求めるものや行動、その全てにおいても違いがあって当然なのだ。
この事実こそが唯一、頭に入れておくべき常識である。

他者の言動は理解できないことの方が多いだろうが、それは今日に至るまで同じ道を通ってきていないのだからしょうがない。
相手を理解したいと思うのなら、経験や経歴、その時の気持ち、深い所まで知ろうとすることが何よりの近道だ。

深くかかわり合う間柄ではない場合やそこまでの関係を築きたくない場合には、相手の考えを、存在を受け入れることに専念しよう。